story.8 親が教えてくれること

近所に美しい奥さんがいる。素敵なおうちに住み、大学生のお子さんは一流の私大に通っている。
いつ出会ってもしゃれた服装で、小汚い格好の私とは大違いだ。いつか、
「近所のスーパーに行くのに、どうしていつもそんなに綺麗にしているの」
と尋ねたところ
「だらしない風をしていると、どんどんフケるような気がして」
と笑っていた。ところが先日駅前で会うと、
「これから母のところへ行くの」
ととても疲れた顔をしていた。施設にいるお母さんの具合が悪いそうだ。
「まあ、おたくも!」
とたんに親近感を持った。私も高齢の母がいて、しょっちゅう田舎に帰っているからだ。
昨年のことであるが、テレビの密着取材を受けた時、入院していた母のところへ通う私の姿が映された。
「大変ですね」
という声かけに、
「私たちの年代で、親のことで苦労してない人はいないんじゃないですか」
と答えたのであるが、これがとても共感をよんだらしい。
「確かにそのとおり」と多くの人から言われた。
三十代、四十代だと親もまだ若い。どちらかが亡くなったとしても、一人で充分やっていける。が、子どもが五十代を迎えたとたん、悩みや不都合はすごい勢いで押し寄せてくるのだ。私は娘の同級生のお母さんたちとは、十歳くらいの違いがあるので、老親の介護について話したことはない。しかし作家仲間や、同世代の友人といると、出てくるわ、出てくるわ、たいていが親の介護に関しての話に終始する。ものすごい確率で認知症になっているのにも驚くばかりだ。
これはもちろんつらく苦しいことであるが、こう高齢化社会になれば仕方ないことと思わなくてはならない。
私はそれよりも、この連帯感に注目したい。三十代の同窓会に出ると、社会的地位や収入ではっきり差がついている。よって会話もあたりさわりないものとなる。が、五十代の同窓会は違う。九十パーセント、親についてのことだ。
昔は「親がボケた」などということは、隠すべき恥ずかしいことであったが、今は全くそんなことはない。ごく日常的なこととなっている。みんな同じ悩みを持っているということは、同じ分母を持っているということだ。だからいっぺん、このあたりですべてのことが”ちゃら“ になってしまうのではないか。
大切な親がボケたことに比べれば、学歴や会社の優劣などどうということはないのがわかる。そしてお互いの悩みを打ち明けあい、喋っているうちに、奇妙な爽快感を持つはずだ。
人生は完璧に悪いことなど何もない、ということを親は教えてくれ、そして去っていくのではなかろうか。