story.9 片づけの美学

四月から初夏にかけてというのは、絶好の片づけシーズンである。
子どもの新学期もあり、ゴールデンウイークにはたっぷり時間がとれる。ここで片づけなければ、いったいいつ片づけるんだ、と雑誌やテレビもせっついてくる。しかし、一向に腰が上がらない私だ。
世の中には整理整頓がまるで出来ない人間がいるが、まさしく私がそうだ。子どもの頃から親にどれほど怒られたことであろう。その時、私はどうしたかと言うと、
「いいもん、私は今にお金持ちと結婚するか、お金持ちになってお手伝いさんを雇うから」
と居直ったという。
そして月日は流れ、私はお手伝いさんをお願い出来る身の上となった。子どもの頃の願いがかなったわけであるが、家の中はずうっと片づいていないままだ。女主人が率先して整理整頓に励まなくては、家の中が綺麗になるはずはない。よその人は、雑誌や新聞や、脱いだものを畳んで片隅に寄せ、掃除機をかけるだけだ。根本的に家の者が、そうしたものを処理しなければ、家の中は永遠に雑然としたままである。
断捨離という言葉が流行ったとおり、捨てなければ何も始まらない、というのはよくわかっている。が、私はそれが出来ない。洋服でも本でも、なかなか捨てることをせず、ため込むタイプである。
きっかけは週刊誌の見出しであった。
「捨てたものほどすぐに忘れる」
これを実行したところ、本当にそのとおりだとわかった。とても値段が高く生地もいいのだけれど、形が気に入らずに一度も袖を通していないジャケットがあった。それをなんと五年もクローゼットの中につるしていた。
「痩せたら着よう」と思っていた高級ブランドのカクテルドレスは七年も私と共にあった。今回そういうものを「エイヤッ!」とばかり処分したのである。といってもゴミ箱に捨てたわけではない。親戚の女性たちにうまく案配しながら送ったのである。
そして大量の本は、バザーに出すことにした。これは半端でない量であり、大変な作業であった。
「捨てたものほどすぐに忘れる」
というのは真実であろうが、そこにまるっきり”情“がなくばっさり、というのはどうも私の場合出来かねる。リサイクルショップやブックオフではなく、何かしら縁のある人に貰ってもらいたいと思うのである。
よくテレビや雑誌で片づけ上手の人のうちが出てくる。余計なものがなくて、まるで家のショールームのようだ。
「余計なものは家の中に入れない」
とある人は言った。郵便物や宅配ものは玄関で開封し包みは捨てるのだそうだ。が、私は必ずおうちの中に入れてあげる。差し出し人を確かめたり、ゆっくり包みを開ける。人の思いが瞬時にゴミに変わるのは悲しい。人が生きていくということは、そう割り切れることばかりではないとつぶやきながら。