story.20 大片づけ

よその家に遊びに行くたび、いつも感心してしまう。
「どうしてこんなにキレイなんだろう」
飾り棚の上には写真立てしかないし、床の上にもなにもなく広々としている。わが家のように、犬のトイレシート、雑誌やバッグが置かれている床とはえらい違いだ。
世の中には、片づけ上手な人間と、片づけ下手な人間がいるが、私はもちろん後者の方だ。イヤイヤながらするからとにかく時間がかかる。たとえば夕食の後、キッチンを片づけようとすると、軽く一時間かかるのだ。
「こんな時間があったら、仕事したいし、本も読めるのに」
とブツブツ文句を言いながら、カウンターごしにテレビを眺めたり、途中でお茶を飲んだりするので仕方ない。
年の離れた私の従姉は、綺麗好きですべてが手早い。うちの母は「片づけの天才」と呼んでいた。私の実家に遊びにくると、ひょいと立ち上がり、台所をピカピカにしてくれる。その時間はわずかに十五分。私とは何かが決定的に違うのだ。
ひと頃断捨離という言葉が流行ったが、私はもう諦めている。私のように自己愛が強く、記憶に執着する人間はモノが捨てられない。
後に誰も見てくれるはずもないのに、原稿や記事を保管してしまう。また本への愛着のため一冊も捨てられない。よって書棚や机のまわりは本であふれ返り、歩くことも出来ないありさまだ。
これはいくら何でもひどすぎる、ある日私は自分にこう問いかけた。
「今まで捨てたもので、後悔したものがあるだろうか」
答えはノーだ。一度も袖を通していない高価な服も、親戚の者たちにダンボールで送ったとたん、そのことを忘れてしまう。しかし、その考えにいきつくまでが問題で、
「もしかしたら痩せて着られるかも」
「流行がめぐってくるかも」
とありもしないことを考えてしまうのだ。そんなことが起こらないことは充分にわかっている。どうしてそんなことをしてしまうのか。私の中では、モノと希望とはいつも結びついているからだ。そんな気がしてならない。
そんな私にも次第に「大片づけ」の日が近づいてきた。父は逝き、母も高齢だ。田舎の実家はいずれどうにかしなくてはならないであろう。
「その時が来たら手伝ってあげる」
と従姉たちは言ってくれるが、古くて大きな家にモノがいっぱい詰まっている。整理するのはおそろしく大事業になるはずだ。
私はその日のことを考えるとつらい。ずっと先になればいいと思う。親の死んだ夜、実家を片づけるというのは、希望ゼロの作業である。思い出をきっぱり裁ち切りながらせつない判断をする。が、みんなこの儀式を経て、本当の大人になっていくのだ。