story.26 キョウヨウって…

ある有名な女性評論家の方と、食事会でたまたま隣り合わせになった。その方が、
「人間、年をとってから大切なものは、教養と教育よね」
とおっしゃったので、私はちょっと腑に落ちなかった。彼女にしては平凡な言葉だなと思ったのである。が、すぐにわかった。
「教養っていうのはキョウヨウ、今日の用事。教育っていうのはキョウイクで、今日行くところ。用事と行くところがなくなると、人間は老けていくばっかりよ」
なるほどと頷いた。私のまわりでも年とってから溌剌としている人は、たいていこの二つを持っている。仕事の要職に就いている人だけではない。ボランティアや趣味にうち込んでいるのだ。
今、開けてみると私の手帳は、ぎっしりとスケジュールで埋まっている。一日に五つ六つ用事が入っている日もある。しかしいつか、この手帳が真白になる日がやってくるのだなあと思う。その日は淋しいに違いない。しかし私のことだから、遊びや趣味でびっちり手帳の予定表を埋めていくだろう。その時までは仕事をしっかりしていかなければ、そして「教養」の方も身につけたいものである。
たまたまつい先日、若い友人から
「林さん、教養って何でしょうね」
と問われた。即座に、
「それって、得れば得るほど、自分が何も持っていないってわかるもんじゃないかしら」
と答え、そしてこうつけ加えた。
「私が思うに教養って、大きな木の枝のようになっている。太い枝をたどっていくと、細い枝に幾つも分かれる。その先端にびっしり実があるから、いくら枝をたぐっていっても追いつかないの」
知人の学者さんたちを見ていると、同じくらいの歳を重ねてきて、知識にどうしてこんなに差があるのかと嫌になってしまう。私の知っている人は、フランス文学に通じているかと思うと、古美術もプロ的な鑑識眼を持ち、ワインのソムリエの資格も持っている。また私が「人間百科事典」と呼んでいる人は、
「幕末、明治天皇はいったいいつ頃までお歯黒やお化粧してたの」
と聞こうものなら、すぐに年代とそれについての資料を教えてくれる。こんな人たちに到底太刀打ち出来るはずはない。私がめざしているものは、日常生活を豊かにしてくれるレベルの教養である。
「あの人、話していて面白い」
といった類いのものでいい。しかし世の中には、そうしたものを全く拒否している人がいる。
私の知っている若い奥さんは、「嵐が丘」も漱石も読んだこともない。新聞もとっていないと聞いて驚いた。一流大学を出ているはずなのに。
「そういうもの必要ないと思うんです」
必要なくても知ることは楽しいと、いつか言ってみたいのだが。