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林真理子のBeautiful Voice なるほど! 小田急

story.41 考えごと

新宿駅の中央線ホームを降り、西口の改札口に向かう。夕方だから乗客は多い。左右前後から人が流れてくる。その中心に立っている人がいてびっくりしてしまった。

カートを置き、ずっと携帯で電話しているのである。あまりの非常識さに私は、近寄ってこう言いたくなった。

「あなた、電話をするんなら、もうちょっと端の壁ぎわによったらどうですか。歩いている人の邪魔になっているんですよ」

そう若くない女性なのに珍しい。外国人だろうかと思ったが、喋っているのは日本語であった。

「公共の場所で、どうしてあんなに常識のないことが出来るのかしら」

とぷんぷんしていた私であるが、その三日後ぐらいに同じようなことをしてしまった。

地下鉄で神宮前駅に降り、階段に向かおうとした。その時、私は自分が奇妙な動きをしていることに気づいた。ドアすれすれに歩いて、これから乗ろうとしている人たちを、ずうっと遮っていたのである。

人は電車から降りる時、そう深くものごとを考えない。ごく自然に体は動いて、ドアを開くのを待つ人々の後方を歩いている。それなのにタイミングが悪かったのだろう。私は足をホームにつけるやいなや、すぐに左に向かって歩き始めていた。乗り込もうとする人々の前を。失礼極まりない行為だ。

私が待っている人だったら、カッと頭にきたことであろう。

「何、このオバさん? なんて非常識なのよ!」

実は私、昔からこの手のことをしょっちゅうしている。が、ひとつだけ言いわけさせてもらうと、私はスマホに気を取られたことは一度もない。考えごとに気を取られていたのである。つまりぼうっとあれこれ考えていたのだ。

たいしたことを考えていたわけではない。今度の週末何を食べようかなとか、あの人のことはやっぱり嫌い。でもあちらも私のことを嫌いそうだからちょうどいいや、といった類いのことである。

考えごとをしているからといって、他人に迷惑をかけてもいいのか、と言われると本当にそのとおりだ。しかし昔から考えごとというのは、女の特権だったのではないか。考えごとというのは、幼い時は空想であった。おままごとを絶対に男の人はしない。お母さんになったり、隣のおばさんになったりしながら、女の子は考えごとをすることの習癖を身につけていく。

考えごとは無駄な時間である。しかし自分をときはなっていくやさしい時間でもある。電車の窓から夕焼けを見ながら、とりとめもないことを考える幸せ。こんな自分でもまぁ、いいか、と思えるひとときである。

みんながニワトリが餌をついばむように、スマホをつついている時代、考えごとをする時をみんな忘れているのかもしれない。

林真理子

小説家。1982年に『ルンルンを買っておうちに帰ろう』でエッセイストとしてデビュー。その後、『最終便に間に合えば』『京都まで』で第94回直木賞を受賞。近著に『野心のすすめ』『私のスポットライト』『我らがパラダイス』。小田急沿線(代々木上原)在住。