story.46 忘れていた時間

バッグの中には必ず本をしのばせている。それはもう私の長い間の習い性のようなものだ。本を持っていないと不安で仕方ない。もちろんスマホであれこれ見たりもするけれど本の重要度には負けるだろう。
そんなわけで電車の中でもいつも何かを読んでいる。新幹線に乗ったりする時など、どんな本を読もうかとうきうきする。
車内販売でコーヒーと柿ピーを頼み、少しずつ口に運びながら小説の最新刊を読む。私の至福の時だ。
が、この頃はとみに目が疲れて仕方がない。本を閉じてしばらく外の風景を眺めていた。どうということのない田んぼと、ありふれた住宅地が続いている。そこから何かヒントを得ていたわけでもない。ただぼんやりしていた。するとぼんやりしていることがだんだん心地よくなってきた。頭をカラッポにして、ただそこにいること。こんな感触を長いこと忘れていた。
「ぼんやりするっていうのはね、頭の運動なんだよ」
先日読んだ小島慶子さんのエッセイに、こんな一節があった。まだ小さい息子さんにそう言ったのだ。オーストラリアの自然の中で暮らす生活だと、こんな素敵な言葉が生まれてくるのだろう。
私は子どもの頃から、ひどくぼんやりした子どもであった。よくモノは落とすし、聞いたことは忘れる。反応がにぶい。
「注意力散漫」
とよく通信簿に書かれたものだ。
今でも家族から、
「突然フリーズして気持ち悪い」
と言われることがあるが、まあたいていの場合はせっかちに生きている。原稿を書き、その合間に対談をし取材を受け、家に帰ってからも資料を読んでいる。リラックスしている時は、テレビを見ている時かもしれない。お風呂に入っている最中も週刊誌を読み、ベッドに入ってからも本を手放せない。
犬の散歩をしている時もせかせかしていて、「早く家に帰ってくれないと、お化粧する時間がない」
といろんなことを考える。そしてついリードをひっぱったりするのだ。
そんな私が久しぶりにぼんやりとした。ぼーっとした。そしてついうとうとした。また目が覚め、景色を眺め、とりとめもないことをあれこれ考えた。仕事には全く関係ないごくくだらないことだ。それはなんと贅沢な時間だったろう。本も読まない、もちろんスマホもいじらない。ただ目を開けたり閉じたりした。するとわかったことがある。時間がたつのがとても遅い。夕暮れまでがゆっくりなのだ。結構一日というのは長いかも、と思った。そしてこんな風に人生をおくるのも悪くないなあと考えた。そう、とても元気になったのである。大切なことを思い出した感触だ。