story.50 ー最終回ー 退場

四年間にわたった私のこの連載エッセイも、今回をもって最終回となる。みなさん、本当にありがとうございました。
思えば、このお仕事の依頼があった時、
「原稿用紙三枚だし、気軽に季節のこととか、おいしい食べ物、おしゃれのことなんか書いていけたら」
と簡単に引き受けてしまった。
ところが担当の方からは、
「読者の方たちが、生き方について深く考えるようなエッセイにしてほしい」
という注文がついた。驚いた。
「たった三枚のエッセイで、生き方を考えさせられるわけないでしょ」
と思ったものの、もはや連載を承諾してしまっていた。そんなわけで何度も書き直しては書いて、という仕事になった。たぶん皆さまの生き方には、なんの影響もなかったと思うが、それでもちらっと読んで、一度くらいは、
「ふう〜ん」
とつぶやいてくださったと信じたい。
さて、私はこの頃「退場」について深く考えるようになった。人生は舞台である、といったのはシェイクスピアだったろうか。
先日、私の母が一〇一歳で亡くなったが、これは本当に長びいた退場である。片隅でひっそりと傍役を演じていた老役者が、静かに観客に背を向け去っていったので、こういうのは納得出来る退場であるが、理不尽なのは、舞台の真ん中にいた若いスターたちが、突然退場してしまうことだ。病気や事故によって、突然この世から消えていく友人、知人を何人も見送ってきた。そしてさらに胸をしめつけられるような退場も最近多い。
尊敬したり憧れてきた人生の先輩たちが、このところいっきに認知症になっていくのだ。あれほどはつらつとした知的な人が、自分のこともわからなくなり、施設に入ってしまったと聞いた時の衝撃。私もいつか誰かに「退場!」と命じられるのだ。それを怖れる一方で、このところ忙しさは増すばかり。
私たちの仕事というのは、一方的な受注産業である。いくら頑張って働きたいと思っても、あちらから原稿の依頼が来なければ何も出来ない。今年は来年の大河ドラマの原作となる長編小説を仕上げ、新聞連載小説を始めた。秋からはまたあらたに連載小説が待っている。週刊誌のコラムは二誌あり、どちらも三十年の長期となった。
六十過ぎれば、世間ではリタイアということになる。が、私は毎日書いては読み、その合間に日本中をまわっている。まだ「退場」と言われていないのだ。なんという幸せなことだろうか。そう、人生というこの劇場でどのくらい幸福な記憶を残せたか、どれほど充実した日々をおくれたか。エキストラの一人で消えていくのはあまりにも淋しい。私はずっとそう思って生きてきた。